熟練の職人が一人で作り上げる名筆「川尻筆」
瀬戸内海のほぼ中央に面する、広島県 呉市。
瀬戸内海では最も長い約340㎞の海岸線を有し、野呂山や灰ヶ峰、七国見山などの穏やかな頂に抱かれた、風致に恵まれた市域です。
この呉市にある川尻町で江戸時代から作られている高級筆が、川尻筆です。
広島の筆といえば、広島県 安芸郡 熊野町で作られる国内シェア第一位の熊野筆がよく知られています。では、熊野筆と川尻筆は何が違うのでしょうか。
それは、生産工程と技法です。熊野筆は「盆混ぜ」 という技法を主流とし、職人の分業体制で生産することに対し、川尻筆は「練り混ぜ」という毛混ぜの技法を主流とし、全工程を一人の職人が担う一点ものの高級筆であることが特徴です。
京筆の流れを汲む川尻筆は、一般社団法人 中国経済連合会によれば、そのしなやかな切っ先から、草書、かな、日本画の精密画などに適していると言います。
農業不利な地に見出された、新たな産業の突破口
山と海が近く寄り添う扇状地に位置する川尻町は、農業や漁業などが営まれながらも、平地が狭いことから農業には不向きな地でもありました。
「川尻史」からその始まりを紐解くと、江戸時代末期である1835年、川尻に住む菊谷三蔵という筆商が、摂州有馬(現在の兵庫県)から筆を仕入れて寺子屋で置き売りの販売を始めたのだそうです。
筆づくりは閑散期の農家の副業として適切だとして、菊谷三蔵が同じく川尻に住む上野八重吉に勧めたことをきっかけに、川尻筆の歴史が始まりました。
株式会社やまき筆菊壽堂によれば、のちに同社を創業した上野八重吉は1850年、自ら摂州有馬に向かい、筆の製法を取得。
出雲国松江(現在の島根県)の筆の産地から職人を雇い入れ、良質高級品の川尻筆の製造を初めて開始したといいます。
各技法の精髄を集約し、筆づくりを探究
当時、出雲では「練り混ぜ」、熊野では「盆混ぜ」の技法で筆づくりが行われていたことを受け、上野八重吉は両者の利点を取り入れながら筆の製造を探究します。
以来、さまざまな生産業者が製造を行うようになり、川尻筆の産地形成がされていきます。
全国的な先駆けとして株式組織による「川尻筆墨株式会社」の設立もあり、1967年には川尻毛筆事業協同組合が組織され、経営の合理化と近代化が実現しました。
佐中忠司「伝統的工芸品産業の事例調査―毛筆製造業に関する全国的概況―」によると、「この早い時期からの会社経営方式を前提とした、たとえば関係業者間の協同組合組織のあり方や生産工程への部分的機械の応用等」が、川尻筆の特異性であるとも分析されています。
1991年には「広島県伝統工芸品」、また2004年には経済産業省「伝統的工芸品」に指定。繊細な筆運びをも支えるしなやかで細い切っ先は、現在も多くの書家や画家に愛用され続けています。
10年でやっと一人前。格別を選り分ける熟練の眼力
軸に付く毛の集まりとなる穂首。筆の良し悪しを決める部位でもあり、穂首づくりの一人前になるまでに10年は必要といわれています。
材料となる原毛には、一見同じように見えても、些細な違いがあります。
見た目と手触りで、毛の弾力や艶、コシ、長さが瞬時に見分けられていく様は、まさに匠の技。折れたり曲がったりする毛を取り除き、筆に適した原毛だけが選別されていきます。
選別した毛は水に浸し煮沸をすることで毛が持つ癖を取り除き、脂分を落としやすくします。
毛を乾燥させ綿毛を櫛で取り除いたあと、「先寄せ」の工程で毛先の方向を揃えていきます。
乱れのない筆先を組み上げる「練り混ぜ」
筆の毛は、箇所ごとに寸法が異なります。
毛先となる「命毛」、その下の「のど」、中ほどの「肩」、根元に近い「腹」、根元の「腰」。この5つの箇所に合わせて寸法を整える「寸切り」を行い、すべての毛を水に浸し、平たく形を整える「平目」の作業を行います。
5つすべての箇所の平目を、一定の分量を取り重ね合わせて一枚の平目をつくりあげます。
長さの異なる5段階の毛を均等に混ぜ合わせ、何度も重ねていくこの工程が「練り混ぜ」です。
こうして組み上がった筆の穂は、自然乾燥を経て根元を麻糸で締め上げ、熱した焼きごてで根元を焼き固めます。この穂首を軸に固定することで、川尻筆は完成します。
美と創造性を支え続けてきた、川尻筆の魅力を知る
伝統工芸士が一本ずつ手作りする川尻筆。大量生産はできない高級筆ではありますが、だからこそ使ったときの差も歴然。書道家や日本画家、漆器や陶器の作家など、さまざまなプロフェッショナルに愛用されています。
1930年から川尻筆を製造を続ける「文進堂 畑製筆所」では、川尻筆のオンライン販売も行っています。書道筆のほか化粧筆の販売もあり、用途別に探せるため、覗くだけでもさまざまな美しい筆に出会えるでしょう。
呉市にある「川尻筆づくり資料館」では、川尻の筆と筆づくりについて、歴史と製造工程を広く学ぶことができます。製造された川尻筆はもちろんのこと、村上三島、手島右卿、青山杉雨などの現代書家の作品も多数展示がされているので、筆の品質の高さをその目で確かめながら、繊細な切っ先が叶える美しい表現を知ることができます。
江戸時代から進化を重ね、あらゆる美と創造性を支えてきた川尻筆。熟練の職人が生み出す筆は、これからもまた、次世代の新たな未来を描き続けるのでしょう。
紡ぎ手:田口 友紀子