【村山大島紬】丘陵の麓で織りの伝統を守り拓いた革新の技術【東京都 武蔵村山市】

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山々が群れる麓で生まれた「村山大島紬」

狭山丘陵の豊かな自然と、穏やかな平地が調和する武蔵村山。
武蔵野台地の西側に位置するこの地域は、古くから「村山郷」と呼ばれていました。由来には、武蔵における有力な武士団であった七氏「武蔵七党」のうち「村山党」の根拠地であったからとも、狭山丘陵の峰々を指した「群山(むれやま)」が訛って「村山」になったとも言われています。
そんな緑豊かな山々が群れるふもとで生まれたのが、村山大島紬です。
大島紬とは、奄美大島発祥である、生糸を用いた先染めの高級絹織物のこと。
その名を冠する村山大島紬は、大島紬と同じく生糸を用いた先染めでありながら、文様を彫った板で糸を染め上げる板締め注入染色を行うことが特徴です。
1975年に経済産業大臣指定の伝統的工芸品産業に、1982年には東京知事指定伝統工芸品に登録されました。

なぜ武蔵村山で大島紬が織られ始めたのか

真綿に手で縒りをかけて紡いだ紬糸を、染色して織り上げる紬。絹物でありながら丈夫なので、日常着の着物の生地として現代に至るまで長く愛されてきています。
しかし、鹿児島県奄美大島で生まれた「大島紬」は、厳密に言えば「紬」ではありません。
当初は紬糸を用いていたものの、需要の高まりと細かな柄を表現するために、生糸で織り上げる手法へと進化していったのです。
作られ始めた当時の技法の名残で、今も紬と呼ばれています。
では、そんな大島紬がなぜ武蔵村山の地で作られるようになっていったのでしょうか。
東京都労働経済局商工部繊維雑貨課 編著『東京の伝統工芸品』によると、武蔵村山を含む狭山丘陵一帯では、古くから養蚕や綿作が盛んだったのだそうです。
八王子や青梅のような織物産地が近くにあったことから、江戸時代の元禄期(1688〜1703年)には縞模様の木綿織物が、文化期(1804〜1817年)には藍染による木綿の村山絣が織られるようになっていきます。
これに東京都立川市砂川町一帯で織られた絹織物「砂川太織」の系譜とも掛け合わさり、織りの技術が発展していきました。

武蔵村山の織りの伝統を守り拓いた革新技術

そんな武蔵村山の木綿織物は、明治以降の3つの出来事を受けて岐路に立たされます。
明治時代中頃になると、他の土地でも安価な木綿絣が織られるようになり、さらに日露戦争後は好景気や輸出需要を背景に絹織物の需要が高まったのです。
しかし、第一次世界大戦後には日本にも不況の波が広がり、絹織物の輸出が減り、絣の生産までも縮小してしまいました。
同じ頃、武蔵村山の一部では黒紬や縞銘仙などの絹織物も織られるようになっていました。
この織りの技法と長年培ってきた木綿絣の高い技術、そして後に群馬県伊勢崎から伝わってきた板締め染色などが掛け合わさることで、絹織物である村山大島紬の製法が確立されていきます。
1920年代になると、生産の中心が村山大島紬へと切り替わっていきました。
絣の競争の高まりと絹織物の人気上昇、そしてその後の繊維業の不況。これらの危機を脱し、武蔵村山の織りの伝統を守り拓いた技法こそが、村山大島紬だったのです。

糸一本の染色が柄の美しさを左右する

村山大島紬の製造工程の特徴は、絣板の制作と、その板を用いた板締め注入染色にあります。
板締め注入染色とはその名のとおり、並べた糸を溝のある板で挟みボルトで締め上げて、溝のある部分にだけ染色液を注入し染め上げる技法のこと。糸一本の染め上がりが織った後の柄の美しさを決めるのですから、いかに繊細かつ丁寧な仕事が求められるのかがわかります。
絣板の制作に用いるのは、織り上がりを描いた本図案と、糸の染めのための板図案の2種類。樹齢70年以上の水目桜の巨木からなる絣板に板図案を描き、図案のとおり織り上がるように作里鉋(さくりかんな)で溝を彫ります。
村山織物協同組合によれば、「一般的には絣板は経(たて)、緯(よこ)併せて150枚程度」を使うとのこと。
絣板そのものは何度でも使えるため量産向きで、それゆえに、高い品質を持ちながらも当時の大島紬としてはリーズナブルな価格が実現し、庶民に広く愛されていたのだそうです。

「板締め注入染色」に求められる熟練の技

染め上げる生糸はまず釜で煮て、コラーゲンを含む膠(にかわ)質など、不純物を取り除きます。
板図案で染める前に、地染めとしてヘマチンなどの植物染料を用いた、染色を鉄媒染などで施します。
仕上がりの柄に合わせて、経糸や緯糸の長さと本数をそろえる「整経」を行い、絣板に一枚ずつ挟み込む「板巻」「板積み」の作業に進みます。
この工程は仕上がりの品質を大きく左右し、糸に隙間ができたり重なったりしないよう一定の間隔に整える熟練の技術が必要です。
経絣と緯絣、それぞれが板積みした集まりを“船”と呼ばれる流し台の上に載せ、ボルトできつく締め付けます。
こうして一色の染料を注ぐと、挟まれて密閉したところは染まらず、彫られた溝で空洞ができている箇所にだけ染まっていくのです。
ボルトの締め具合により絣の文様の大きさが変わるほど繊細な工程は、村山大島紬ならではの特徴。
他の色を足したい場合には、ヘラを用いてまとめた絣糸に手作業で染料を刷り込む「刷り込み捺染」を行います。
蒸して染色を定着させた後に、絣の文様を揃えて折り上げて完成となります。

絣糸に織り込まれた伝統と革新の技を見よ

村山大島紬の特色は、絣の柄の細かさとなめらかな手触りでしょう。
かつては、着物の紬生地の使い分けとして「春結城に秋大島」とも呼ばれていました。
絹糸で織られた軽やかな大島紬は、暑さの残る秋にちょうどよいという、昔の人の四季の知恵を感じる言葉です。
村山織物協同組合会館にある織物資料室では、村山大島紬の製造工程が紹介されており、自由に見学可能です。
実際の織り機や、時代ごとの反物の違いも展示されていることから、その歴史と技術の奥深さを十分に知ることができます。
多摩エリアの工芸品や雑貨、体験を販売する通販サイト「BALL. DEPARTMENT」では、村山大島紬の反物のほか、財布やストールなどの小物も販売されています。
日常を格上げする逸品を見つけられるかもしれません。
青々とした丘陵のふもとで生まれた、村山大島紬。
村山の伝統を守り拓いた歴史と高い技術は、時を越えて今日も絣糸の一筋一筋に織り込まれ続けています。

紡ぎ手:田口 友紀子

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