上野焼が生まれた風光明媚な土地、福智町
まちの象徴である標高901mの「福智山」が名前の由来となり誕生した福智町。
福岡県の北東に位置する福智町では、その由来の通り緑豊かな山々が広がり、清流が静かに流れています。夏になると麓の川には蛍が集まり、夜には幻想的な景色に出会えます。
また「かもめの水兵さん」「うれしいひなまつり」など数々の名曲を残した童謡作曲家の河村光陽の誕生地でもあり、故郷の情景を思い浮かべた曲も多く残されています。
そんな福智町は、良質な陶土と気候に恵まれ、約400年前から陶芸の産地としても発展してきました。
福智山の麓にある上野峡の近くには「上野焼」の窯元が約20箇所点在しています。
「侘び寂び」を受け継ぐ、控えめで上品なデザイン
福岡県田川郡福智町で製造されている上野焼は、その控えめでいて存在感のある美しさが最大の魅力です。
自然の風合いを生かしたデザインは、茶道の精神である「侘び寂び」の美意識と強く結びついています。
もともと茶陶として発展した上野焼は、極めて軽く薄づくりであるとともに、使用している釉薬の種類が多く、多様な色彩もその美しさを生み出しています。
また江戸時代の著名な茶人である小堀遠州が目をかけた「遠州七窯」の一つであることでも有名で、七窯の中でも国指定の伝統的工芸品に指定されているのは上野焼のみです。
その歴史より高貴なイメージを持つ上野焼ですが、現在では日用品として普段づかいしやすいデザインも多くつくられており、地元の人々に長く愛される工芸品となっています。
茶陶として始まり、400年の歴史を歩んできた
上野焼の発祥は江戸時代に遡ります。始まりは、千利休から直接茶道の教えを受けた豊前小倉藩主の細川忠興公と李朝陶工の尊楷が出会い、開窯したことがきっかけだと言われています。
以来、細川家の統治期間中、30年にわたり尊楷は茶陶を献上し続け、上野焼は藩主や貴族たちの「御用窯」として重宝されていきました。
その後、明治時代の廃藩置県とともに豊前小倉藩が無くなると、上野焼は一時衰退の危機に直面することになります。
しかし、田川郡の補助もあり、熱心な陶工たちが時代の変化に柔軟に向き合い努力を続けた結果、窯は復興することができたのです。
現在では上野焼の特徴となっている釉薬による多彩な表現も、当時の陶工たちの研究と努力の賜物です。
400年という時の流れとともに歩んできた上野焼は、少しずつ姿を変えつつも、その中に変わらぬ風情を感じさせる存在であり続けています。
職人技と自然の融合で生まれる陶器
上野焼ができあがるまで、大まかに6つの工程(土つくり→成形→乾燥→素焼き→釉薬の塗布→本焼き)を経ています。すべての工程で伝統的な手法が守られ、職人が手間ひまをかけて制作します。
特に力を入れられるのが素材となる土つくりの工程で、以前は制作に使用される粘土は、すべて職人たちが地元の山を探し回り採掘していました。
粘土は「水簸(すいひ)」と呼ばれる技法でさらに良質なものだけ取り出され、十分に練り上げられてから成形されます。
他の陶器と比べると非常に薄づくりである上野焼の成形には、妥協を許さない職人技が光ります。
その後数週間かけて乾かされた器は、約800度の高温で素焼きされ、釉薬を塗布されます。釉薬を用いた上野焼の代表的技法である「緑青流し(ろくしょうながし)」は、塗布された緑色の釉薬が焼成中に陶肌を自然に流れることで生まれる模様です。
こうして職人の技と自然の力が融合し、唯一無二の作品が生まれるのです。
触れて楽しむ上野焼
茶陶としてだけでなく、今ではバリエーション豊かな商品もつくられるようになった上野焼。
日常を少し格上げしてくれるその落ち着いた風合いが、長く人々を魅了し続ける秘訣なのかもしれません。
上野焼を生み出すそれぞれの窯元でも作風や色使いが少しずつ違い、どれも独自の魅力を持っています。
上野焼共同組合は9つの窯元で構成されており、上野焼の伝統を守り続けています。陶器作りの見学・体験もできますので、ぜひ実際に触れて魅力を感じてみてはいかがでしょうか。
また例年春には「上野焼春の陶器まつり」が、秋には「上野焼秋の窯開き」が開催され、参加窯元の創作作品や新作、お買い得商品が上野の町に並びます。今では県内外から多くの陶器好きが集まる名物イベントとなっています。
この機会に、お気に入りの上野焼を探してみませんか。
福智町公式ホームページでは、こういったイベント情報や観光スポット・特産品紹介など、福智町の魅力を紹介していますので、ぜひ一度訪れてみてください。
紡ぎ手:Hikari Goya