八岐大蛇の伝説が残る里が生み出す雲州そろばん
島根県の東南端にある、仁多郡奥出雲町。
鳥取県と広島県の両方に接しており、中国山地の懐に抱かれた奥まった盆地に広がる、のどかな里山です。
奥出雲町には『古事記』で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)が住んでいたとされる斐伊川の源流「鳥上滝」など伝説の残る場所が複数があり、神話ゆかりの地としても知られています。
この奥出雲町で作られるのが「雲州そろばん」です。
雲州そろばんは、「質の雲州」と言われるほどの優れた品質を有します。
柘植や黒檀、樺の木などの厳選された堅木を使い、職人の技が生む美しい仕上がりは計算機としてのみならず工芸美術品としても評価され、1985年に国の伝統的工芸品に指定されています。
独自探究の末に生まれた名そろばんの技法
中国で発明されたそろばんが日本に伝わったのは室町時代。そして雲州そろばんの歴史は、江戸時代の1830年頃に始まりました。
広島県の侍が奥出雲町(当時の松江藩)を訪れた際に、民家へ宿泊した礼として置いていったそろばんが、あるとき破損してしまい、その修理を奥出雲町の大工が行ったことがきっかけです。
その大工の名は村上吉五郎。若干15歳で蔵を建てるほどの腕前を持ち、京都の本願寺の造営にも参加したほどの名工だったと言われています。
このそろばんの修理を行なって以降、吉五郎はそろばんづくりの研究を始めます。
珠や枠に使う木材の種類や、ろくろを使って珠を削ることなどを探究し、軸には農家の藁屋根で100年以上もの間、燻されて煤けて硬くなった竹を用いることで精密で堅牢なそろばんを作り上げることに成功しました。
しかし、この技法について吉五郎は一子相伝でしか伝えることを望まず、弟子を持ちませんでした。
吉五郎が作る優れたそろばんを知った村上朝吉という人物が、珠削り用の手回しろくろを苦心して発明し独自のそろばん製法を確立し、地域の職人たちに伝授したことで、奥出雲町でのそろばん製造が盛んになりました。
やがて明治時代を迎える頃には名産地として知られるようになっていきます。
雲州そろばんの高い品質が日本全国に知れ渡るまで
職人が品質にこだわり、大半を手作業で生産するが特徴の製法は「雲州式」と呼ばれ、朝吉が開発した手廻しろくろ等の制作用具はその画期的なつくりが評価され、2006年には国の有形民俗文化財にも登録されました。
雲州そろばんの普及には、その品質の高さと合わせて、「雲州そろばん」の呼称を用いた営業活動が大きな効果を見せました。日本全国へ行商へ向かい、中国との交易も進めていったのです。
1955年頃には機械製造が進んだものの、今でも手作り製法が保持され、特に高級そろばんは名工が匠の技を駆使して丹念に作り上げています。
軸と珠、その運びを支えるは匠の技
雲州そろばんの工程は187にも及び、そのほとんどを職人が手作業で手掛けていきます。珠には樺や柘植など、枠には黒檀、芯には煤竹を用います。
吟味した原木を乾燥させ、粗く削って再度乾燥させた後は口どりをして、穴をあける「中穴ざらい」を行います。
軸に使われる竹は寸法に合わせてカットし、珠がよく動くように丸く磨き上げます。
枠は木取りをして選別し、軸が通るように穴を空け、仮組みを行いきっちりと嵌るように微調整を進めていきます。
五玉と一玉を区切る枠は「中桟」と呼ばれ、こちらも軸を通すための穴を空け、両面を削ります。
部品が揃ったところで組み上げていき、珠差しを行います。
雲州そろばん 協業組合によれば、「3.15mmの珠の穴に2.93mmの軸を通していく」ほどの精密さで、仕上げには熟練の職人が手の感覚を用いて、コンマ数ミリの凹凸が平らになるように仕上げていくのだそうです。
冴えた音を奏でる“紙一重”の精密さ
そろばんの命とも言えるのは、珠です。
『山陰山陽民芸の旅』(田辺雅章 編・著/中国電力広報室)によれば、仕上げの工程の中でも、珠と軸の調子を出す仕上げの玉の穴ざらいが最も重要であると言われています。
珠と珠が吸い付くように重なり合った瞬間に鳴り響く冴えた音は耳にも美しく、雲州そろばんはその隙間に紙が一枚入っても動かなくなるほど緻密に仕上げられています。
珠運びのよさはそろばんのよさでもあることから、雲州そろばんの美しさは、触れてこそ味わえるもの。
奥出雲町にある「雲州そろばん伝統産業会館」では、歴史や製造工程、そして国の登録有形民俗文化財となった雲州そろばんの制作用具も展示されています。
本物の雲州そろばんに触れられる場でもあるので、雲州そろばんならではの珠運びのよさを堪能できることでしょう。
珠算の静謐な調べを指先と耳で味わう
「雲州そろばん Yahoo!ショップ」では、習い事や学習にも使いやすいものから上級者向けのものまで、幅広いラインナップが取り揃えられています。
末長く愛用してほしいとの思いからアフターメンテナンスも行われているので、代々受け継ぐ一生物として迎え入れるのもよいかもしれません。
そのほか、そろばん珠を用いたキーホルダーなど、珠玉の美しさを現代の日常でも味わいやすいアクセサリーも取り扱われています。かつて、生活の必需品であったそろばん。
ITが発展した現在でも、脳を鍛える効果があるとして、今なお高い人気を誇る習い事でもあります。
時代がどれだけ変化しようとも、熟練の職人が仕上げた珠が生み出す静謐な調べは不変の美しさ。
雲州そろばんは、今日も数え知れぬ珠の音を打ち鳴らし、その伝統を未来へと受け継いでいます。
紡ぎ手:田口 友紀子