【大谷焼】始まりは旅の細工師が伝えた手仕事【徳島県 鳴門市】

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渦潮のまちで作られる「器」

大谷焼の産地・徳島県鳴門市は、同県の東北にあります。人口は約53,000人。北部は瀬戸内国立公園に指定されています。
かの鳴門海峡が見せる渦潮は、鳴門市を語る上で外せません。
鳴門市の1998年(平成10年)に神戸淡路鳴門自動車道が開通し、2002年(平成14年)には高松自動車道が全線開通しました。現在は、四国・本州をつなぐ拠点として全国から観光客を集めています。
さつまいもや鯛、ワカメなど、豊富な特産物も魅力のひとつ。これらを楽しめる観光事業に力を入れており、さまざまな体験イベントが展開されています。
大谷焼は、そんな観光地で古くから伝わる焼き物のひとつです。日用品として、鳴門市に江戸のころから息づいています。

旅の細工師が伝えた「焼き物」

大谷焼は、焼物としては徳島県で唯一の伝統的工芸品です。
その始まりは江戸時代といわれています。1780年(安永9年)、豊後の国(現在の大分県)から来た焼き物細工師が大谷村(現在の鳴門市大麻町)を訪れたことがきっかけでした。
件の焼き物細工師・文右衛門は家族5人で四国八十八か所霊場の巡礼に訪れ、大谷村で初めてロクロ細工を披露し、壺などを赤土で焼き上げました。
この頃、阿波の国(現在の徳島県)では、焼き物自体が珍しかったといいます。
当時の藩主・蜂須賀治昭は、南京・唐津と呼ばれる磁器を焼くよう命じました。九州よりたくさんの職人を雇い入れ、大谷村に藩営の窯(藩窯)を築き、染付磁器の焼成を試みたのです。
しかし、磁器の原材料は大変高価なものだったため採算がとれず、3年という短い期間で藩窯の廃止に至りました。

うつろう大谷焼のかたち

さて、藩窯を立ち上げる際に関わった藍商人の賀屋文五郎は、旅先で信楽焼の職人・忠蔵と出会います。彼を雇い入れると自身の弟である平次兵衛に陶器を作る技法を習得させ、大谷村で登り窯「連房式登窯」を築きました。
土や釉薬を地元の萩原や姫田から調達し、水甕(みずがめ)、藍甕(あいがめ)といった、大きな陶器の生産を始めたのを機に、大谷焼は産業として確立していきました。
国の伝統工芸品に指定されたのは、2003年(平成15年)のことです。
全盛期は窯元も数十軒ありましたが、現在は数軒が残るのみとなっています。
人々の生活様式が変わると共に、大谷焼もその姿を変えています。従来の大きな磁器だけではなく、茶碗コーヒーセットといった日用品やインテリア性の高いものなど、身近に感じられるものが多く作られるようになりました。

大谷焼をかたちづくるもの

大谷焼は、まず原料の土を砕くところから始まります。土をしっかり乾燥させ、細かく粉砕するのです。
砕いた土は、不純物を取り除くためふるいにかけられます。精製した土に水を加えて粘土にしたら、ロクロで成形です。半分乾いたところで、カンナを使って余分な土を削っていきます。
形を整えたら、さらに乾燥させて素焼きに入ります。そのあと絵付けをして釉薬をかけ、高温で本焼きをおこない完成です。
大谷焼で使われる土は鉄分が豊富で、ざらっとした中に光沢が感じられる質感が人気です。
一般的な焦茶色の他にも、銀色や灰色など変わった色のものがあります。
さらに大きな特徴として「寝ロクロ」があります。これは1人が作業台の下に寝ころび、足で蹴りつつロクロを回し、もう1人が成形するものです。
大物を作る技法ですが、これを焼く登り窯はかなりの大きさ。鳴門市にある登り窯は有形文化財に登録されています。

職人のオリジナリティが生み出す作品

大谷焼の窯元では、陶芸教室や1日体験に参加できます。
大西陶器はオンラインショップから製品を購入できます。
ほっこりとした風合いと形が愛らしい湯呑みやマグカップなど、日常使いできるものが揃っています。ロクロを使った手びねり体験や、素焼きを済ませた作品への絵付け体験も魅力的です。
OTANIYAKI tamura 1784は、料理のための器をフルオーダーで作ってくれます。大切な過程のひとつが、料理と器、作り手同士の対話です。互いの想いをすり合わせ共有すると、既製品とは一線を画す器が生まれます。
陶芸家それぞれの個性と技術が、現代で新たな大谷焼のかたちを作り上げているのです。

地元をあげて盛り上げる「窯まつり」

また、毎年「窯まつり」と称し、春と秋に盛大な大谷焼のイベントが開催されています。
窯元の作品がお得に購入できるほか、展示会やカフェ、絵付体験など盛りだくさんの催しがあるお祭りです。スタンプラリーやガチャガチャなど、一見焼き物とは結びつかないものもあり、年代問わず楽しめるものとなっています。
大谷焼は、ひとりの旅人が伝えた焼き物から始まりました。
せっかく築いた窯が短期間で廃止に追い込まれるなどの困難を乗り越え、現在も人々に愛されています。
大型の器が多かった大谷焼ですが、現代人の暮らしになじむかのように小さなお皿やカップ、花器など、あらゆる実用品へ変化を遂げています。
鳴門市は観光事業に精力的なまち。
かつて九州から渡ってきた職人が大谷焼の始まりを紡いだように、鳴門市に訪れた人が帰途で大谷焼の語り部となる光景も、日本のどこかにあるのかもしれません。

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