薩摩で始まった変化に富む陶磁器
本土最南端に位置する鹿児島県。古くから大陸との交易が盛んで、様々な“国内初”を経験してきた地でもあります。
鎌倉時代には島津家初代の島津忠久が薩摩地方で勢力をふるうようになり、薩摩、大隅、日向の南九州三ヶ国の守護職に任じられます。島津家は明治に至るまでおよそ700年間南九州を治めました。
薩摩焼は、そんな薩摩で始まった鹿児島県を代表する陶磁器です。種類が非常に多く、それぞれのデザインや使用用途に違いがあり変化に富むのが特徴です。
薩摩焼は大きく分けて白薩摩(白もん)と黒薩摩(黒もん)に分類され、産地によって竪野(たての)系、苗代川(なえしろがわ)系、龍門司(りゅうもんじ)系、西餅田(にしもちだ)系、平佐(ひらさ)系に分けられます。
それぞれの特徴で魅了する白薩摩と黒薩摩
白薩摩は「白もん」と呼ばれ、ややベージュ色のかかった生地に金、赤、黄、緑などで上絵付けが施され、透明の釉薬をかけた繊細かつ豪華な焼き物で、表面に独特な細かいひび割れ(貫入)が入っているのが特徴です。一般的に観賞用や置物として使われます。
かつて白薩摩は藩窯の竪野系と苗代川系で焼かれ、藩や島津家だけが使用し、庶民の目に触れることはありませんでした。
1867年には薩摩藩がパリ万博に薩摩焼を出品し、ヨーロッパの人々を魅了して「SATSUMA」の名を知らしめました。
それに対して「黒もん」と呼ばれる黒薩摩は漆黒の光沢を放ち、素朴で重厚な面持ちです。古くから庶民の生活の器として生活に溶け込んできました。焼酎専用の酒器、黒茶家(くろじょか)が有名です。
桜島がある鹿児島の土壌は鉄分を多く含んでいるため、地元の土を使うことで真っ黒な焼き物に仕上がります。何種類か違う釉薬を使うことで絶妙なニュアンスを出すのが特徴です。
朝鮮からもたらされた3つの系統
薩摩焼は、豊臣秀吉が1592年から1598年に2度にわたって朝鮮出兵した「文禄・慶長の役」の際に、薩摩藩17代藩主である島津義弘が朝鮮から80人以上の陶工たちを連れて帰り、彼らが藩内各地に窯を開いたことによって始まりました。
朝鮮人の陶工たちは祖国の文化を継承しつつ、各窯場の立地条件や独自のスタイルによって作品を作っていきました。そのため多様な種類の焼き物が焼かれることになります。
400年以上に及ぶ歴史の中で窯は5系統に分けられ、現在は朝鮮系の竪野系、苗代川系、龍門司系の3窯場が残っています。
竪野系は薩摩焼が誕生したころに主流として栄えました。初めは朝鮮の白土を使った「火計手(ひばかりで)」が主力作品でしたが、後に贈り物や献上用の茶碗を作るようになりました。明治維新で一時途絶えかけましたが、黒もんを作るようになって再興しました。
苗代川系は黒もんをメインで作っていましたが、後に白もんも作るようになりました。特に火計手が有名です。
龍門司系は黒もんを得意とし、多彩な釉薬を駆使した酒器を多く作ってきました。今でも酒器を中心に、美しい茶器や日常雑器などを作っています。
個性豊かな中でも共通するもの
黒薩摩は釉薬による質感と模様が特徴であるのに対して、白薩摩は表面に絵や彫りが入るため、両者は製造の工程に違いがあります。
どちらも成形した土を軽く乾燥させ、カンナや彫刻刀で削って形を仕上げた後に完全に乾燥させます。その後800度前後で素焼きし、釉薬を塗って1250度程度で本焼きをする過程まで共通しています。
しかし黒薩摩はここで仕上がるのに対して、白薩摩はここから絵付けをし、さらに上絵をしっかりと焼き付けます。金細工を施して再度焼き付ける場合もあります。
両者とも職人の技術と情熱が込められ、個性を発揮しながらも歴史と文化を反映しています。
美山で伝統と匠の技・誇りを体感
鹿児島県日置市の美山地区は、陶工たちが江戸時代終盤まで言葉も服装も朝鮮であることを貫き続けてきた地域であるため、今でも独自の陶器文化を持つ特別な場所として知られています。
そこに位置する420年以上続く沈壽官(ちん・じゅかん)窯は名門として伝統を守り、今もなお「薩摩の土」と「登り窯」で薩摩焼を作り続けています。
15代当主は朝鮮から連れてこられた陶工の末裔で、薩摩焼による日韓文化交流や世界各地での展示を精力的に行っています。オンラインショップもありますので、歴史と匠の技・誇りの結晶である作品を入手することができます。
また、毎年11月上旬に開催される「美山窯元祭り(美山CRAFT WEEK)」は薩摩焼の伝統と歴史に触れ、工芸品に親しむ場として毎年多くの人が訪れます。風情ある秋の美山を楽しみながら職人と作品の温かさを直接感じることができる機会です。
鹿児島県薩摩焼協同組合のホームページでは窯元の紹介をしています。個性豊かで変化に富む薩摩焼の魅力に触れてみてください。
紡ぎ手:Muta Yuka