【高崎だるま】江戸時代から200年以上 人々の多彩な願いをこめて【群馬県 高崎市】

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“だるま” といえば “高崎だるま”

縁起物として家に飾られるだけでなく、人々が思い思いの願いを込めて筆を入れてきた「だるま」。
群馬県高崎市は、だるまの全国シェア8割を超え、今も年間約90万個のだるまを出荷しています。
日本の吉祥である鶴と亀があしらわれた高崎だるまは開運の神様とされていて、「福だるま」と呼ばれています。眉に鶴、鼻から口ひげにかけて亀、そして人々の願い=福が叶うことを願ってお腹に「福入」と書かれただるまをみなさんも一度は見たことがあると思います。

今もそのほとんどの工程が手づくりの “高崎だるま” は、いつからつくられるようになったのでしょうか。

だるまのルーツは “達磨大師”

高崎市でだるまがつくられるようになったのは、江戸時代の天明年間(1781〜1788年)に全国規模で広がった飢饉の後になります。
飢饉で生活が苦しくなった農民たちを見た少林山 “達磨寺(だるまでら) ” 9代目の東獄和尚(とうがくおしょう)が、農民たちの副業になるようにと “だるまづくり” を考えたのがはじまりです。
和尚は寺に祀られている達磨大師の座禅像をもとに木型を彫って、農民たちにつくり方を教えました。
つくられただるまは七草大祭の時に売り出され、農民たちは収入を得られるようになりました。
現在も少林山周辺で70軒ほどの家がだるまをつくっていて、その伝統は200年以上続いています。

今もつづく少林山 “七草大祭” だるま市

東獄和尚の教えのもと農民たちがだるまを売り出した “七草大祭 ” は、今も大変多くの人で賑わっています。
毎年1月6日と7日に、少林山達磨寺の境内にはずらっとだるま露店が並びます。大きいものから小さいものまでたくさんの赤いだるまが積まれた露店には、だるまを求める人々が大勢集まり、大変なにぎわいです。
開催2日目の1月7日は本堂に祀られている北斗星を神格化した北辰鎮宅霊符尊(ほくしんちんたくれいふそん)が降臨する吉日とされ、その前夜祭として1月6日から高崎のだるま市が開催されています。
高崎のだるま市には毎年数10万人の参詣者が訪れ、高崎の “福だるま” が初春の縁起物として買われているのです。

昔から ずっと手づくり 高崎だるま

高崎だるまは七草大祭の時だけでなく、今ではネット通販で常日頃より全国の人々から求められています。
行く先々で商売繁盛、安産祈願、家内の安全、選挙の当選、様々な願いを託される高崎だるまは、今もなおその工程のほとんどが手づくりです。
だるまのベースとなる生地は、紙を溶かした水槽にだるまの金型を入れて行われる真空成形という手法でつくられます。
天日で2〜3日乾燥された生地の底には、ヘッタと呼ばれる重りがつけられます。何度失敗しても立ち直る “七転び八起き” のだるまには欠かせない工程です。
次に下塗りです。生地の紙がむき出しでは色が綺麗にのらないので、胡粉(ごふん)と膠(にかわ)をお湯で溶いた液につける “どぶづけ” で下塗りされただるまは真っ白になります。
胡粉が乾燥したら赤の塗料の中に入れられます。真っ白のだるまが一転、真っ赤のだるまになります。
塗料が乾燥したら顔の部分が白く塗られ、目のまわりだけオレンジ色に化粧されます。
そして職人一人一人が鶴を模した眉、亀を模したひげを描き、顔の両側に金色で願いごとを書き、金のひだと「福入」の文字を書いて完成です。

願いさまざま だるまの色もカラフルに

もともと高崎だるまは “赤” と “白” の2種類でした。
仏教の世界で位の高いお坊さんが緋色の法衣をまとっていたことから、“赤” が伝統の色として用いられてきました。
また、群馬は養蚕が盛んだったことから “白” のだるまは繭(まゆ)に似ているとして好まれてきました。
だるまの種類には必勝だるま、寿だるま、安産だるま、合格だるまと様々あります。近年では黒字=商売繁盛を願う黒色のだるまや、金運が上がるようにと金色のだるま、恋愛が成就するようにとピンク色のだるま、などなど実に多種多様なだるまが生まれています。
高崎のだるまやさん では、大小さまざま種類もさまざまなだるまを通販で購入することができます。
みなさんにも色んな “願い” があると思います。
伝統の高崎だるまをパートナーにして、願いを叶えてみてはいかがでしょうか。

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