美しい自然に囲まれたやきもののまち三川内
長崎県北部に位置する佐世保市。長崎市に次ぐ人口を擁する中核市でありながら、西海国立公園「九十九島」に代表される、海や島、山の自然と触れ合うことができる自然豊かな港町です。かつては旧海軍の軍港、現在は米海軍基地で栄えた国際交流が盛んな町は、「ハウステンボス」でも知られます。
そんな佐世保市の東部にある「三川内」は400年続くやきもののまち。
陶磁器に欠かせない陶石や燃料となる木が茂る山、豊かな川の流れなど美しい自然に囲まれています。今でも残る窯元の煙突や登り窯がやきもののまちの風情を感じさせ、日本の原風景が広がっています。
三川内には「皿山」「木原」「江永」の3つのエリアがあり、窯元の多くは皿山地区に集まって三川内焼の中心となっています。
手描きが繊細で美しい三川内焼の代表技法
三川内焼の特徴はなんといっても白い器に青色で施された繊細で美しい実写的な絵付けです。
素焼きの白地に筆を使って藍色の絵の具「呉須(ごす)」で絵や文様を描き、着色する技法は「染付(そめつけ)」と言います。
絵柄の輪郭を描く作業を「骨描(こつが)き」、絵柄に呉須を染めていく作業は「濃(だ)み」と呼びます。
三川内焼は今でも職人が絵画を描くように一筆一筆絵付けしており、濃みの濃淡で立体感や遠近感を表現するなど、絵画的な手法が継承されています。
その技法を使って描いた中国風の服装や髪型をした可愛らしい唐子(からこ)の絵は、三川内焼を代表する図柄です。
他にも光に透けるほど薄い「卵殻手(らんかくで)」(別称:薄胎(はくたい))や、華やかな模様を施した「透かし彫り」や「菊花飾細工」、立地的な絵柄が特徴の「置き上げ」などの代表技法があります。
400年前に朝鮮の陶工から始まったやきもの
400年の歴史を誇る三川内焼は、豊臣秀吉が2度にわたって朝鮮半島に攻め入った「文禄・慶長の役」までさかのぼります。
平戸藩主の松浦鎮信は秀吉の命令で、帰国時に朝鮮の陶工を100人ほど連れて帰ります。そのうち陶工の1人、巨関(こせき)は中野(現在の長崎県平戸市)で窯を開きました。これが、三川内焼のルーツとなりました。そのため三川内焼は平戸焼や中野焼と呼ばれることもあります。
しかし、平戸では良い陶石に恵まれず、最終的に落ち着いた先が三川内でした。
もう一つは同時期に佐賀県北部で誕生し、同じく朝鮮半島の陶工によって発展した唐津焼の影響。唐津焼が拡大して発展していく中で、陶工は周辺の町にも移り住むようになり、唐津から現在の佐賀県伊万里市に移った高麗媼(こうらいばば)が同郷の巨関に招かれて、130人近くもの陶工たちと三川内に移住して窯を開きました。
今日まで受け継がれる高度な技術と質の高さ
1650年ごろには、平戸中野窯の主力陶工たちを三川内に移し、平戸藩の御用窯が三川内に確立します。
藩のあつい保護を受けているため、陶工たちは金に糸目をつけずに良質の原料と最高の技術を駆使しながら技術の粋を極めていきます。
平戸藩は南蛮貿易を盛んに行っていたため、作品は海外にも多く輸出されました。
ずば抜けた技術と質の高さで技巧を凝らした作品たちは注目を集めていきますが、1800年ごろまでは献上品として非売品だったため、その製法は門外不出でした。
明治維新後は民窯となりますが、高度の技術の継承が難しくなりつつある危機感が高まり、1899年に三川内陶磁器意匠伝習所が設立されました。
これによって優れた技術が今日まで受け継がれています。
世界に一つだけの匠の技を体験しよう
三川内焼美術館は、江戸から続く三川内焼の各時代の名品が並ぶ展示室と、現在の窯元の代表作品が集められた伝統産業会館を併設した、過去と今の三川内焼を一望できる施設です。
ここでは絵付け体験や透かし彫り体験に参加でき、伝統の技法を学びながら自分だけの作品をつくることができます。
毎年10月初旬には、三川内焼美術館・三川内焼伝統産業会館前広場で陶器市が開催され、多くの買い物客で賑わいます。30以上の特設テントが設けられ、50万点以上の商品の中からいつもより安く商品を買うことができます。
また、三川内陶磁器工業協同組合が運営するオンラインショップでは、21の窯元の商品を買うことができます。カップ・湯呑みや茶道具、皿、花瓶やアクセサリーなど幅広い商品があり、窯元やカテゴリーごとに一覧できます。
職人によって一つひとつ息を吹き込まれた作品から、ぜひあなたのお気に入りを手にとってみてください。
紡ぎ手:Muta Yuka